コラム

日本の食文化は崩壊寸前?

 「和食(WASHOKU)」のユネスコ無形文化遺産登録も気が付けば2013年12月というかつての出来事。一汁三菜を軸にした多品目かつ低カロリーな和食のコンセプトは健康志向の時流にも乗ってか、当時55000軒ほどだった海外の和食店は今や欧米・アジア圏を中心に187000軒と3倍以上にまで増加した(2023年・農林水産省調べ)。その世界的な勢いたるや空前の和食ブームと言って差し支えない。異国の地で和食の伝統性が正しく保たれているかは別の話として、日本の食文化が異文化圏で公式に支持された事実と他国からの一定の関心を得たことには素直に喜びを表したいところだ。


 翻って日本国内の実際の食事情はどうだろうか。統計データによると主食である米の消費量は一人当たり年間50キロ強とここ半世紀でほぼ半減し(2022年・農林水産省調べ)、2000年代初めまで世界一と言われた魚食量も年間50キロ強でトップのアイスランドにダブルスコアで水をあけられるなど年々減少の一途を辿っている(2020年・FAO国連食糧農業機関調べ)。これは日本の食生活にパンや肉中心の欧米スタイルが定着してきた影響も大きいとされるが、米食・魚食をひとつの礎とする和食を誇る国としては幾分心許ない情勢である。


 更には栄養価の低い加工食品・インスタント食品の市場急拡大、かと思えば過剰な栄養志向による健康食品・サプリメント摂取の常習化、果ては飽食の最たる弊害と忌むべき料理の写真を撮ってろくに食べもしないSNS映え習慣の横行。いずれも日本に限ったことではないが、食のモラルは時代と共に一部急激な変化を遂げており、ユネスコが支持するところの「健康的な食生活を支える」和食の根源的な意義とは、悲しいかな、今となっては皮肉にも無形文化遺産という言葉どおりの無と化し、守り伝えるべき食の伝統性なぞ現代の日本においてはどこ吹く風といった有様である。


 戦後、食の欧米化を筆頭に新たな価値観を「多様性」として受け入れ、貪欲に吸収しプラスに昇華してきた日本人の寛容さだが、時としてこのような時代の負の変化に鈍する二面性を孕んでいるということなのだろうか。その真偽は兎も角も、その「多様性」という何かと都合の良い考え方が幅を利かせるようになった現代社会では、社会の自浄作用として本来必要な種々の警鐘までが鳴りを潜めている。もはや人類規模の異変を異変とも思えない脆弱な社会基盤が構築されてしまっている可能性さえ軽々に否定できないご時世なのだ。


 インターネットやスマートフォンが普及して以降、日本における歯止めの利かない食情報の氾濫ぶりもその片鱗と言えるだろうか。大手食品関連企業とメディアのタッグによる薬事法スレスレのフード・ファディズム(※)的な情報発信、食通を公称して憚らない者たちの真偽の不確かな感想まがいの評論文、承認欲求を満たしたいだけの人々による不毛な料理写真や動画投稿など、無限増殖的にネット空間を満たしていく凡そ食文化の発展に寄与するとは思えないそのノイズ混じりの情報の坩堝は良く言って玉石混交、悪く言えば有象無象の代物である。なぜならその多くが新たな食文化に向けた価値の創造ではなく既存価値からの個人の搾取に終始しているからだ。


 百歩譲ってそれらを一過性のエンターテイメントとして見た時、消費者の目に幾ばくかは有意義に映るかもしれない。しかし、日本における未来の食文化の礎とは今まさに築かれている最中であり、後世の歴史家が後々悠長に振り返ればいいというものでは決してない。今の世の中、事の正否や善悪を差し置いて声の大きな人々の軌跡ほど往々にして残るものだ。このままその者たちの無自覚かつ無為な行いを傍観すれば、いずれ食のモラル崩壊をきっかけとして日本が世界に誇る和食(WASHOKU)文化は音もなく瓦解し、歴史の1ページとして過去の遺物に追いやられるに違いないのだ。いや、むしろ今そうなっていないと誰が断言できるというのか。

※科学が立証したことに関係なく食べものや栄養が与える影響を過大に評価すること(1952・マーティン・ガードナー著「奇妙な理論」)

フジワラコウ

筆者 フジワラコウ

コラムニスト。主に「食」に関する随筆的コラムを手掛ける。人間の心の琴線に触れるような奥深い食の世界を探求し、独自の視点で発信中。 元日本フードアナリスト協会認定講師、元日本ソムリエ協会認定講師。テレビ・ラジオ・雑誌・Web媒体ほか各種メディア出演実績あり。座右の銘は「神は細部に宿る」。同名義で音楽家としても活動中。