コラム

日本人は「記号化された味」の奴隷である

 見出しの内容に触れる前に、なぜ大手食品企業が健康志向の消費者心理を弄ぶかのようなフード・ファディズム(※)的商品分野にこぞって手を出すのかということからお伝えしたい。その背景には営利企業としての利益追求という本分も当然あるわけだが、事の本質は消費者の科学的知見を圧倒的に凌駕する各社の研究開発力にある。

※科学が立証したことに関係なく食べものや栄養が与える影響を過大に評価すること(1952・マーティン・ガードナー著「奇妙な理論」)


 どういうことかを紐解くと、まず食品研究開発の学術的な裾野は一般に農学・化学・工学・医学/薬学など多岐にわたるが、そういった各分野の研究者を自社内に多く抱える食品メーカーは専門機関や大学等との共同研究で権威ある科学誌に成果論文を寄稿する例が珍しくない。また独自に取得あるいは出願している特許の数に至っては主要企業だけでも年間数百件にも上る活況でその例は枚挙に暇がない。有り体に言えば食の最先端の知見と利権構造の源泉が大手食品企業の手中にあるのだ。つまり、消費者は未知の食情報に「体に良い」という主旨のそれらしい付加価値づけをされても容易に真偽を計り知れないほど先進的で莫大な先行投資としての研究を各社は身銭を切って行っているというわけである。


 だから是とするわけではないが、大手食品企業と消費者の縮まることのない知見の差がフード・ファディズム的な商品に無視できない価値性を生み出すこと、そこに商機を見出す企業が一定数いたとしても資本主義社会において何ら不思議はないということは心に留め置きたい。


 更に言うなら企業の先進的な知見とその蓄積は何もそういう分野にだけ向けられているわけではない。消費者にとってより身近な食品にもそのノウハウは確実に活かされているのだ。


 コンビニ商品が良い例だ。普段、消費者が何気なく購入しているおにぎりやサンドイッチはもちろん、今や一大ジャンルとして確立された「コンビニスイーツ」などはその最たるものだ。ひとたびヒットを掴み取れば、たったひとつのお菓子が年間何十~何百億円という桁違いの収益を企業にもたらす正にゴールドラッシュの世界。各社が血眼になって次の金脈を探し求めるのも無理からぬ話だ。


 その用意も極めて周到だ。必要に応じた段階的なエリアマーケティング、専門メーカーとの共同開発チーム、分子レベルの調理科学的アプローチ、風味や食感等の徹底した官能評価、そこから試作と検証を何百何千回と繰り返し、完成した商品にはキャッチコピーやパッケージも含め億単位の広告宣伝費をかけて各種メディアに露出する力の入れようだ。「料理は科学である」とは英国作家ロバート・バートンの有名な言葉の一部引用だが、このコンビニ各社の食への飽くなき探究心はある意味でその体現と言っても大げさではない。


 ただしそれらの取り組みに問題が全く無いわけではない。コンビニ企業に限ったことではないが、そういった食の大資本が一般消費者という大衆=マスをターゲットに商品を開発する際、売れ続けるための「安定した品質」と利潤を最大化する「より安価な製造コスト」を重視するのは想像に難くない。いかに優れた商品と言えども製造ごとに品質がブレたり、不用意に製造コストがかかり過ぎたりすれば将来的な事業としての継続性を見込めないからだ。しかし、本来品質と製造コストは正比例するもの。一定の品質を保持しながら製造コストを下げるのには必ず限界があるはずだ。覆すのが容易ではないこの課題点に各社はどのように向き合っているのだろうか。ここに来て冒頭でも触れた食品メーカーの知見が遺憾なく発揮される。察しの良い方はお分かりだろう。そう、食品製造における現代の魔法こと「食品添加物」の登場である。


 何かと業界の暗部として見られがちなこの食品添加物だが、消費者は何となく悪いイメージは抱きながらもその実態については余りよく分かっていないのが現実ではないだろうか。安全性等の風評や各種詳細については当趣旨から外れるため他書に譲るとして、まずはその使用目的が大まかに食品の品質改善、外観向上、腐敗防止、栄養強化、製造加工用という5つから成ることに着目したい。その言葉通りに受け取れば何ら後ろ暗いところのない真っ当なものばかりにも見えるが、実は「品質改善」と「外観向上」の2つが結構な食わせ者だ。建前上、名目を○○改善・△△向上と謳えば聞こえはいいが現実はそう甘いものではない。

  
 例えば、手間とコストの掛かる出汁の風味はすべてうま味調味料で安価に再現され、加工肉は植物性タンパクを混ぜて歩留まり100%超えのリッチなかさ増しを実現し、飲み物の香りは天然原料を使わずに合成香料で雰囲気たっぷりに取り繕い、製造過程で失われる食材の色味はご丁寧に漂白してから着色料で鮮やかに色付けする。若干わざとらしい言い回しではあるが、これらは脚色ではなく明示が義務付けられた食品表示から読み取れる公然の事実だ。本来、添加物の効能で改善や向上するはずの使用食材がその原型を留めるどころか、これではもはや図画工作で一から創作したといった趣である。


 前置きが長くなったが本題に入ろう。大手食品企業は商圏の広さと同時にその流通規模を賄えるだけの大量生産を使命として負っている。ライバル企業との激しい価格競争の中、製造コストを抑えるための妥協のない効率主義がいかに業界を蝕んできたかということについては想像するに堪えないが、実は本項で問題視するポイントはそこではない。筆者が言いたいのは、前述した食品添加物に象徴される先端科学のチカラを借り、行き過ぎた効率化と均質化の果てに世の食品の風味がおしなべて「抽象化」してしまっているということだ。


 そもそも味や香りが「抽象化」するとはどういうことか。


 元来食材というのは天からの授かりもの。良いときもあれば悪い時もあるのが自然界の掟だ。その不確定なものを使って生み出される純粋な食品の風味というのは得てして無秩序で、毎回微妙に変化したり、時として驚きに満ちていたりと一様に物差しで測ることの出来ない言わば一期一会のものだ。


 それに対し抽象化された風味とは、科学のチカラで食品製造上の様々な不確定要素を排して再現性を確立し、消費者がその成果物を大枠で識別するのに必要な最低限の官能特性だけを残した概念的な風味のことである。分かりやすく例えると無果汁のオレンジジュースを飲んだ消費者の大半が「これはオレンジジュースである」と認識できるギリギリの特性を科学的に導き出した最小公約数的な風味のことだ。


 由々しき問題は、このように抽象化された単調な風味の記憶の積み重ねは、いずれ記号化してしまう可能性が高いということである。この場合の記号化とは抽象化された風味を繰り返し摂取することで、その風味が無意識のうちに各人の固着概念と化すことだ。「カレーと言えばこの味」のように人間の記憶に優先的に定着する風味と言い換えればイメージしやすいだろうか。


 「それっておふくろの味みたいなものだし、何がいけないのか」というご指摘はあって然るべしだが、想像してみてほしい。下手をすれば自分の味と香りの記憶の大部分が、凡そ預かり知らぬどこぞの企業の利益とやらのために安価に化学合成された本物とは似て非なるもので埋め尽くされていく様を。そして、抽象化の果てに記号化された分、何となくでも思い描けてしまう単調な風味を「懐かしい味」とでも言いながらいつしか衝動的に求めるようになる自分の姿を。


 しかしながら、多くの日本人が生活の拠り所としているスーパー等の陳列棚に占める安価な加工食品の異常な豊富さを考えても、残念ながら現代社会の経済性や流通面からすれば、大衆の一部である私たちはそういった食品なしに仮初にも豊かな生活を送ることが難しいのも事実だ。すなわち今や日本人の多くは一定の物質的な豊かさ≒生活水準と引き換えにそういった記号化された味に隷属していると言っても過言ではないのだ。何なら今考え付くつく限りの食品や料理の風味をぼんやりとでも思い浮かべてみてほしい。その中に本物と断言できる味は一体いくつあるだろうか。

フジワラコウ

筆者 フジワラコウ

コラムニスト。主に「食」に関する随筆的コラムを手掛ける。人間の心の琴線に触れるような奥深い食の世界を探求し、独自の視点で発信中。 元日本フードアナリスト協会認定講師、元日本ソムリエ協会認定講師。テレビ・ラジオ・雑誌・Web媒体ほか各種メディア出演実績あり。座右の銘は「神は細部に宿る」。同名義で音楽家としても活動中。