人間が受け取る情報の8割は視覚からという俗説がある。五感で処理される情報を分かりやすくデジタルデータに置き換えられたと仮定すると、確かに視覚情報は特に膨大なものになるだろうことが素人目にも理解できる。一応その説の出処を探ってみると神経生理学的にそれなりの算出根拠があってのようだが、仮に確たる証拠が無くとも、昨今の視覚に訴えるモノで溢れ返った世の中を一目見渡せばある程度頷けるというものである。
手元のスマートフォンから街中まであらゆる生活空間を埋め尽くす静的・動的な広告コンテンツ、技術の発展と共に目まぐるしい進化を遂げ、人々の目を奪う美麗な映像作品、年々奇抜さを増す最先端ファッションなどは最早お決まりの風物詩といったところか。
他方、唐突に悲惨な事故映像や他人の不幸を見せ付けて視聴率を稼ぐテレビ番組、一個人の承認欲求および商業的欲求を満たす虚構画像や奇行動画が止め処なくアップロードされる各種SNSなどは現代社会のノイズとして忌避されるべきものだ。しかしながら、そういう苦痛と快楽が渾然一体となり、様々な欲望が渦巻く刺激的な視覚情報を簡単には無視できないのも人間の性と言えよう。
問題は人々がそれらに興じる余り現代社会における情報の受発信が視覚に偏り過ぎている異状を直視できていないことにある。
人間が受け取る情報の大部分を視覚が担えば、即ちそこから得られる苦痛や快楽も比例して大きくなるのは自明の理だ。特に情報化の進んだ現代社会ではスマートフォンやタブレットなどの機器が視覚・聴覚ほか人間の感覚器の延長のように機能しているが、それらを通じて誰もが世界中の情報を瞬時に入手できることへの驚きや感動、万能感は今や失われて久しい。今はより多くの快楽を求める者たちによって情報が効率的に取捨選択されていく刹那主義の時代であり、ビッグデータやAIを用いた情報のパーソナライズ分野の著しい進歩は視覚的に見たいものを次々と見せてくれる新たな仕組みをご丁寧にも提供し続けている。その在り方から現代の視覚情報を取り巻く環境を一言で言い表すなら、言葉は悪いが情報ドラッグの宝庫とも言うべき享楽のるつぼである。
食に関して言えば、ナニナニ映えと称して奇をてらった突飛な盛り付けや過剰なパフォーマンスが衆目を集めるなど、程度の差こそあれ見映え至上主義的な食のエンターテイメント化がひとつの世界的な動向となっている。しかし同時に欧米を中心に「フードポルノ」という言葉が普及の兆しを見せているように、人間の情欲をみだりに掻き立てるような無分別な食情報の発信が問題視され、その姿勢にも良識や品格が問われ始めている。
現代人がこれからも途切れることのない刺激的な視覚情報に夢中になればなるほど、耳を澄まし、鼻を利かせ、手肌の感触に意識を集中するといった他の感覚を研ぎ澄まし様々な事象に感応する機会も同時に失われていく。知覚対象が必要以上に視覚情報に偏るということは、本来そうやって養われるべき感受性の健全な発達さえも危ぶまれるということだ。それはつまるところ、各人にとって現実世界の機微が永劫失われることに等しい。
動物は進化の過程で必要なくなった器官が長い年月をかけて退化するという。例えば人間の耳の周りに3種だけ残っている耳介筋という筋肉は元々10~14種ほどが組み合わさってパラボラアンテナの要領で器用に耳を動かし、野生動物が周囲の危険を察知するように音の方向を感知するためのものであったが、自然界の脅威に晒されるリスクの減った人類にとって「音の方向」を認識する緊急性が低下したことでその大部分が失われてしまったと考えられている。
さて、視覚という一世界に囚われ、他の知覚が疎かになり始めた一部の人類にいつしか退化がもたらされるとしたら一体どんなものになるだろうか。先々そうならぬためにも、ここはひとつ我々の生活様式に一時的な断食ならぬ断観(※)を取り入れ、目を休めると共に視覚以外の情報にも意識を広げる習慣を作り、本来あるべき五感の均衡を維持できるよう努めたいものである。
※安静な状況下でアイマスク等で一時的に視覚情報を遮断すること