「美味しい食べ物」は存在しない。食と感性を扱うコラムとしては常軌を逸したテーマと言えそうだが、紛うことなき筆者自身の考えである。ただし、その真意をご理解いただくには、いくつか説明が必要になる。
予てより筆者は飲食物や飲食店等の感想・評価が情報となって他者から他者へ伝播する際、事実を除く価値性の大部分は媒介者の相対尺度によって維持されるため、その純度や密度は一次情報から二次三次へと段階を経るごとに減衰または変化していくものと考えてきた。
そもそも、食に限らず情報の価値とは受け手が自身の価値基準と比較対照する過程で都度形成されるものであり、価値そのものが直接伝播するわけではない(Sperber,Wilson.1986)。そのため、一次情報で付与された価値性が三次情報でも維持される保証はなく、ともすれば全く別のものへと変容してしまう可能性さえある。
例えば、好意的な意図の込められた「薄味」という言葉を含む一次情報が、受け手の相対尺度の働きで「味が薄い」という二次情報に媒介されてしまえば、三次情報では元の事実がもたらし得た繊細な調味技術という価値性の大半が失われてしまうという具合だ。
対して、ミシュラン・ガイドやゴ・エ・ミヨ等の著名な評価機関が生み出す食の権威主義、またネット上の集合知的に振る舞う昨今の点数制グルメサイトが囃し立てる飲食店バブルなどは、食情報が一定以上の価値を維持しながら伝播することがひとつの前提条件になっている。しかし、現実にはそれらの情報を媒介する者たちの相対尺度による価値性のブレとそこからの再媒介の連鎖によって、二次情報以降の価値性が一次情報から形成され得る適正な範囲に収まるのかは疑問だ。むしろ各媒体は都合よく上振れした価値性の差分を力点とし、ある種の虚構として機能させる胆(はら)ではないかという発想は皮肉が過ぎるだろうか。ともあれ、近年は高速通信網が発達し、世界中に発信者・表現者が急増したことで多様な食情報が増殖の一途を辿っており、こういった画一的で中央集権的な食情報の価値づけが時代にそぐわなくなってきている感も否めない。
以前の記事「美味しいは美味しさを騙る」で述べたように、「美味しい」という感情やその全容は基本的にそう感じた者の専有物だ。まして「美味しい」の成り立ちは個々人で異なり、その論理の軸となる食への注意の焦点も各人固有のものである。極論を言ってしまえば、食情報が何らかの権威に発せられることで、その価値が顕在化するように見えたとしても、それは仮初の虚像に過ぎない。実際に味わい、各人の相対尺度で評価されるまでは受け手一人分の価値さえ確定しないのが不動の真理である。至極当然のことだが、食情報の価値とは人間の味わう行為の時系列的な原理原則からして元来潜在的でしかあり得ないのだ。
シュレディンガーの猫という思考実験をご存知だろうか。毒ガス装置の付いた箱の中にいる猫は、生きている可能性と死んでいる可能性が重ね合わせの状態にあり、箱を開ける(=観測する)ことで生死が確定するという量子力学の有名な例え話だ。筆者は、食情報の不確かな伝播や価値の揺らぎに思いを馳せる時、この「箱を開ける」という行為が食における「食べる/味わう」に思えてならない。味わって初めて食情報の価値が決定される道理ならば、食べる以前の味の価値性とはあらゆる方向に重ね合わせの状態にあり、受け手はそれを確定する観測者と言えるからだ。
そして、俗に言う観測者自身も現象の一部であるという俯瞰的な視点から見れば、観測行為そのものに恣意的な揺らぎを起こし得る期待や思い込みなどの心理的な前提、認知バイアスの作用といった食における極めて不確定でいかにも量子的な性格が浮き彫りになる。それが食情報の本質を捉えにくくしてるのと同時に、もはや味というものの存在自体、受け手の主体的な観測なしには成り立たないのではないかという一種の哲学的な示唆をも与えてくれる。
その着想を支持する例として色がある。色とは、物体が太陽光をはじめとする光の特定の波長を吸収し、残りの光を反射するという物理的な特性で決まるとされている。その反射した光のうち、人間の網膜にある3種の錐体細胞(それぞれ赤・緑・青に対応)で感知されたものが信号として脳に送られ、三原色の要領で統合され何色かを認識している。この仕組みが一般的に赤色は誰にも等しく赤いという共通認識の基礎である。
しかしながら、色盲など遺伝的な要因で一部の色を知覚できない者や2種の錐体細胞しか持たない多くの哺乳類にとって、人間が認識する赤色は逆に緑色であったり、中には黄色や灰色に見える者までいる。また、鳥類や一部の昆虫類など4種以上の錐体細胞を持つ生き物たちの色覚には人間の感知できない光(紫外線など)が反映され、大きく異なった色合いに見えるとも言われている。すなわち、人間が赤色だと信じているものは、飽くまで一般的な人間の色覚で観測するからこそ赤色の認識に至るのであって、物体そのものが固定的な色情報を発しているわけではない。色を決定する物体の物理的な特性は観測者にとって特定の色に見えるための必要条件ではあるが、その特定の色の認識自体は物体の物理特性を決定づける十分条件とは言えないのだ。その意味において、色とは観測者によって形成される相対的な観念とも言えるのではないだろうか。
アイルランドの哲学者ジョージ・バークリー(1685-1753)は、観念論において、「存在とは知覚されることである」と唱えた。しかし、色に限らず、味、匂い、音、感触など五感で知覚されるもの全ては、その存在を判定する本質が物体の物理特性なのか、あるいは知覚した人間の意識なのか、はたまたその相互作用なのか、それが常に文脈で変化する非常に相対的かつ観念的な枠組みだ。そうやって物質主義と観念論の間(はざま)で実在性の拠り所を求めて揺れ動く知覚そのものの不安定さは、言わば主体と客体という二つの視点に跨った綱渡り。その危うさは、食の一次情報でさえ価値性の揺らぎが十分に起こり得ることを示している。
さて、改めて「美味しい食べ物」が存在しない理由とは何か。それは、人間の「美味しい」という認識もまた五感の知覚に端を発する相対的な観念であることに尽きる。「好きな」食べ物や「楽しい」場所のように、そう認識した者の意識上にのみ存在する観念というものは、他者と共有可能な概念とは大きく異なる。
例えば、レストランで一組のカップルが料理の美味しさを分かち合っていたとする。その姿は一見、互いの「美味しい」という認識を共有しているようにも見える。しかしながら、双方が認識している「美味しい」の観念は他者と隔絶された個々の意識下に生じた不可侵なものであり、実際にはその内的な観念からシンボル化した感情や言動面を確認し合っているに過ぎない。つまり、共有され得るのは飽くまで表層の概念なのである。
情報社会の現代においては、媒介者の意図によって観念であるはずの「美味しい」が事あるごとに情報のように振る舞い、また価値性を帯びているも同然に扱われる。その言語表現としてのあり方は、言わば概念に成りすました擬態だ。それは観念の領域を大きく逸脱しており、受け手の認識への過干渉と言わざるを得ない。我々は、その擬態した「美味しい」に度々感化され、実際は個々の意識上の観念としてしか存在しない「美味しい食べ物」をまるで現実にあるかのように錯覚させられている。そのような認識の乱れは、食体験の画一化やひいては食文化の順当な形成を阻害する一因にもなりかねない。
「美味しい」という観念の非共有性や不可侵性は、美味しさを概念化する上でひとつの制約であり、食文化の発展にとっても大きなハードルと言えるが、その性格を軽んじた情報社会による安易な概念への擬態やすり替えは甘受するに値しない。物理存在としての食べ物と食への認識から生じる観念、その境界をより明確に見定める姿勢を以て、まずは「美味しい」が捉えどころのない観念であるその事実を受け止めることから始めなければならない。