人間の認知機能は、心理学・神経生理学等で大まかに知覚・注意・記憶・言語理解・思考という五つの構成要素から為ると考えられている。段階的なプロセスではなく、敢えて構成要素という表現を用いて全体を一括りにするのは、それぞれの機能が複雑に絡み合い、様々な要因で前後し、時に同時多発的でもある特異な連携性を有し、認知とは必ずこの順序で機能するという時系列的な捉え方があまり適していないためである。
人間の五感はこの中で言う知覚の初期段階=感覚に位置づけられ(James Gibson.1950)、各人が視覚や聴覚等の五感に紐づく感覚器官で環境から受け取る純粋な情報(以下、感覚情報という)、仮に対象が物であれば「色・形・大きさ」「音」「匂い」「質感・重さ」「味」といった単純な内容が処理されている。
そのままでは五感が個々の情報へ漫然と感応しているに過ぎないが、それらが知覚の高次な機能である知覚統合よって結び付けられると(Ernst Weber.1820)、より複合的な情報へと瞬時に昇華されていく。
例えば、街中で消防車を見かけたとする。注意を向けたその対象から得られる感覚情報には、「赤い」「大きい」「光る」「動く」(視覚)、「硬い」「重い」(触覚)、「音を出す」(聴覚)「(周辺の煙等の)匂い」(嗅覚)などが考えられる。
それぞれの情報単体で対象物を特徴づけることは至難だが、それらが選択的に組み合わさることで(Anne Treisman.1980)、当人の記憶(知識や経験)との照合により大まかに「自動車」と判別され、特徴的な色や大きさ、四角い形状、固有の音のパターン、匂いの種類など場合によっては周囲の環境からも情報を得ながら思考し、時には言語的な理解も踏まえて「消防車」と認知するに至るのである。
また、感覚情報の組み合わせによっては、それらの相互作用によって、より豊かで深い認知に至る(多感覚統合:Ernst Mach.1866)こともある。視覚で危険性や炎を連想させる消防車の赤色を感知すると同時に、聴覚で警戒させるような連続したサイレンの音を感知することで、消防車の「緊急性」を認知するといった具合だ。
食においても、例えばスーパー等で買える国産の標準的なサイズのトマトを単純に「トマトである」と認知する時、「赤い」「丸い」「光沢がある」「(大人のこぶし大より小さい位の)大きさ」(視覚)、「(軽く持ち上げられる)重さ」(触覚)「(さっぱりとした)香り」(嗅覚)、「(軽やかな)酸味」(味覚)、「(軽く噛み解せる)柔らかさ・質感」(触覚)といった感覚情報が選択的に組み合わさる知覚統合が下支えしている。
これがトマトを使った料理になるとその認知は困難になる。代表例としてスパゲティ用のミートソースを取り上げると、調理工程で包丁等による切断や加熱による熱変性で原型から著しく変化したソース中のトマトを「トマトである」と認知するために拾える感覚情報は色や風味の傾向、僅かに残った食感など非常に限られる。鋭敏な知覚能力を持った一部の人間を除き、事前の知識や記憶なしに複数の食材の風味や食感の混ざり合ったミートソースの材料に「トマトが含まれる」ことを判別するのは容易なことではない。どちらかと言えば、食材単体の認知に留まるのではなく、トマトが含まれることで得られるミートソース全体の豊かな食体験へと多感覚統合されるのが普通であろう。
このように複数の感覚器官から得られた情報等を結びつけて物事を認識する一連のメカニズムを「統合的認知」と呼び、人間や一部の高等生物がこの世界を理解し、日常の様々な問題を解決する上で非常に重要な能力だと考えられている。
さて、従来の食育ではどの食材にどんな栄養素が含まれ、どういうバランスで摂るのが良いのかといった知識面や健康的な食習慣、持続可能な食環境、地域の食文化の継承などのあるべき姿が主に説かれてきた。しかしながら、日本国内の慢性的な栄養不足が問題視されていた19世紀後半に端を発する食育は、飽くまで身体的健康の礎となる食材の栄養価を土台に組み立てられており、筆者の注目する食を通じた五感の感応の先にある可能性に触れることはない。
その流れを汲む現代の食育の観点から見れば、「トマトを食べる」ことが何を意味するのかという意識の中心は、「緑黄色野菜を摂る」「酸味のある食物を摂る」「ビタミンやβカロテン、リコピン、食物繊維等の栄養素を摂る」といった画一的な理解にならざるを得ない。つまり、そこに栄養価以上の価値は見込まれないのである。それは即ち、人間の五感に対して食物から栄養的な価値を見出す情報源としての役割は期待しても、それ以上のことは食育の観念上求めるべくもないということだ。
果たして人間の五感とは、それが妥当と言えるほど、食において栄養を摂取すること一点に向かって感応することしか出来ない短絡的な能力なのであろうか。
以前の記事「人間は誰しもが高性能センサーの塊である」で触れたように、人間の五感が最先端スマートフォンにも劣らぬ高性能センサー群であることに疑う余地はない。それらを活用する人間の認知機能は無限に近い事象の判別が可能であり、その及ぶ範囲は食物であれば五感の感覚情報から栄養価を推定するような基本的なことだけに留まらない。
先に挙げたトマトを認知する際の五感の感応も、トマトの存在に明確な注意を向けられてこそ起こり得る自律的な情報の取捨選択の一例に過ぎない。言い換えれば、人間は漠然とトマトを前にした時、本来その存在から生じる膨大な情報に晒されているのである。そこから何を拾い上げ、選択的に組み合わせるのかは認知しようとする者の対象への興味関心や目的意識などが反映される「注意の焦点」がどこに当てられるかで異なってくる(Donald Broadbent.1958)。
空腹時ならばトマトを食材の一種として、知人へのプレゼントで思い悩んでいれば色彩や形状の象徴として、スペインのとある地方のお祭り会場では相手に投げつける手頃な武器として、それぞれ必要に応じて感覚情報が振るい分けられる。つまり、注意の焦点の多様性が都度トマトに異なる意味性や価値性を付与するのだ。
石塚左玄の提唱から100有余年。その意思を受け継ぎ、近代以降の日本で食との関わり方の指針を示してきたはずの食育という概念は、食に対する感謝の気持ちの喚起や地産地消・共食の推進など外向きの意識向上には一定の役割を果たしてきたと思われる。しかしながら、最も基本的な「物を食べる」という内向きの営みに栄養価に代わる新たな焦点を具体的に示してこられなかった。つまるところ、現代の食育は人間が食に対して持ち得る本来多様な「注意の焦点」を旧来の「栄養価」に当てたまま延々と引きずっている状態なのだ。
注意の焦点が偏れば、当然、五感が拾う情報も偏る。その偏った感覚情報の組み合わせから為される認知の幅も限定的と言えよう。注意の焦点にいかに多様性を持たせられるかで、食が人間に与え得る意味性や価値性が大きく変化するのである。
人間の認知を媒介する五感のすべてを同時に働かせる唯一の活動、それが食である。その過程で拾われる感覚情報の組み合わせは、同じ五感が媒介してきた人間の様々な心象を呼び起こし、時に重なり合い、また共振・共鳴する。その発露の形として時代時代の表現者の手によって芸術や文学などにも昇華されてきた。その根底にあるべき多様性に富んだ「注意の焦点」が今後も変わらず「栄養価」に当てられ続けるとするならば、トマトは人間にとって永遠にトマトの形をした栄養素のままであり、それを使った料理も同じく栄養素の集合体でしかなくなる。それは食への感応が人間の心を動かし得るという大きな可能性の遺失ひいては放棄であり、身体的健康を目指す食育のひとつの限界点をも示している。
人間が食に心を動かされ得るということは、そこには栄養価に限らない多様な注意の焦点が介在することを示唆している。そして普段は刹那に消えゆくその小さな心の声にこそ、物事の多様な意味性や価値性を紡ぐ人間の大きな可能性が秘められている。それは正にこの世界を多角的に捉え、事象の細部にまで思い至る心の性能の源泉であり、それがひとつの指標となる心の健康・健全性の原点とも言える。
食のあり方は食文化の変遷が示すように時代と共に少しずつ移り変わる。その流れの中では栄養価を土台にしつつも同時に多様かつ柔軟な視点や価値観が必要となる。今こそ食を統合的認知の観点から見つめ直し、これからの指針となる新たな食育を考えるその時ではないだろうか。