うま味は味覚上の味以外にも様々な作用があることで知られている。前回の記事で触れた相乗効果のほか、人間が口腔内で味を感じやすくするための潤滑剤として必要不可欠な唾液の分泌を促す作用、意外に胃腸内にも分布する味覚受容体と結びついて消化を促進する作用、科学的に検証中のものも含めれば食べ物を口に入れた後の香り、いわゆる口中香の感覚強度を増幅する作用などだ。20世紀の末まで「うま味」の存在に懐疑的で、件のMSG(L-グルタミン酸ナトリウム)の効能も基本四味の増強によるものと信じていた海外の科学者たちは、おそらくこういった作用の複合的な感覚を以て否定の材料としていたものと想像するが、食物中のうま味がうま味以外の感覚に影響するという仕組みの存在が近年少しずつ明らかになってきていることから、彼らにも一種の先見の明があったのは確かである。
それら数多の研究によって波及的に重要性が増してきている「うま味」だが、それが無秩序に濫用されるということは、味覚上の違和感に留まらず、食物の風味全体の均衡さえも破り得ることに他ならない。しかしながら、そういった異形な味わいが跋扈するうま味偏重の現代日本の食事情においても、チャイニーズレストラン・シンドロームのような「減うま味」の囃し立ては一切起こっていない。むしろ「うま味」の調味上の減塩効果が広く謳われ始めてからは世の健康志向に乗じて猫も杓子も「うま味礼賛」である。通常ならフード・ファディズムの影響力の大きさにたじろぐ場面であるが、実はその背景には日本人の「うま味」に対するやむを得ざる一知半解の実情があった。
人間の味覚には基本五味それぞれを認識できるだけの最小限の量、いわゆる閾値というものが存在する。また多少の個人差はあるものの一般的に好ましいとされる基本味の最適嗜好濃度も食品ごとに存在している。口に含んだ食べ物の基本味のいずれかが個々人の最適嗜好濃度を上回れば、通常「甘過ぎる」「塩っぱ過ぎる」「酸っぱ過ぎる」「苦過ぎる」といった負の反応を伴うものだ。しかし、こと「うま味」に限っては不思議と「うま過ぎる(うま味過ぎる)」とはならない。どちらかと言えば好ましい味全体への賛辞として用いられる「ウマ過ぎ!」など俗っぽい表現の方が耳に馴染むのではないだろうか。
他の基本味に比べ発見からの歴史が浅く、「うま味」という味覚の概念それ自体が一般に定着していないということなのか、あるいは神経生理学的に基本味の中で人間が最も感じ分けにくいとされる「うま味」が食べ物の味の構成要素としてこれまで人々の関心を引いてこなかったからなのか。いや、曲がりなりにも和食文化を誇る一民族として、例えば出汁を入れない味噌汁を日本人の多くが物足りなく感じるのを誰もが容易に想像できるように、「うま味」が最適嗜好濃度を”下回る”ことについては何らかの経験則的な味覚反応を示す傾向が確かにあると推察され、全くの無関心とは考えにくい。
一説には人間にとってのうま味の最適嗜好濃度の上限範囲がその他の基本味に比べて極めて広いという考え方も存在するようだ。しかしながら食品市場におけるうま味の濫用が一向に収束しない現状を鑑みると、長い時間をかけてその味に慣らされた日本人が本来持つべき繊細な味覚を失い始めているように思えてならない。
うま味の発見から一世紀余りの今日現在、先述の「うま過ぎる」が一般化しない現状や散見される手放しの「うま味礼賛」が日本人のうま味に対する味覚や量感の曖昧さを実質的に物語っているとするならば、それは日本の食文化衰退の予兆であり、今後の明暗を分けかねない大きな危険を孕んでいる。それは「現代日本人はうま味の”機微”に無頓着である」という一つの可能性だ。
うま味発見の偉業を成し遂げた池田菊苗教授には大変申し訳ないが、それが現実になるとすれば「うま味」という命名に依るところが実は大きい。よりにもよって大昔から普及している関連語「旨味」と同音異義語にしてしまったことは日本人とうま味の発展的な未来を数世紀は遅れさせたと筆者は考えている。
うま味とは一言で言えば食物中に含まれるアミノ酸や核酸、有機酸の味である。その中でグルタミン酸ほか人間の味覚受容体と強く反応する一部のものを便宜上うま味の代表格として取り扱っているに過ぎない。もし「うま味」という概念を色に例えるならば、基本味という立ち位置を尊重すれば赤・緑・青の三原色のひとつと言えようか。色自体に良し悪しが無いように、うま味もその有無や多寡が直接的に味の優劣を決定するものではない。それに対し食物の好ましい味を意味する抽象的な口語表現「旨い」の派生語「旨味」は、その主観的な好ましさのみを根拠として「うまみ(がある)」と表現して差し支えのない非常に使い勝手の良い言葉だ。
いずれも味に対する用語であり不必要に親和性の高いその二語を聴感上の混同によって誤解・誤用するのは結果やむを得ないとして、無益に概念として干渉し合うよう図らずも仕向けられてしまった点は甚だ遺憾である。つまり、「うま味」とは基本味という生理学的にも食文化的にも重要な因子として扱われながら、常に旨味という好意的かつ大雑把な観念が連想される宿命にあり、確固たる理解なしには認識や定義が個々で漠然としやすい不遇な言葉なのだ。適当という言葉に「適切」と「いい加減」という真逆の意味があったり、結構ですが否定にも肯定にも受け取れる日本語ならではの曖昧さに新たな火種を撒いたとも言える。
即ち、仮に現代日本人がうま味の機微に無頓着であるとしても、外的要因で味覚が鈍化しているかどうか以前に、根本原因として、「うま味」の正確な概念に容易にはたどり着けない日本語独自の内言語的な干渉が存在することにも目を向けなければならないということだ。
濫用されるうま味の実態を前に非難の声一つ上がらないのは、理解のおぼつかない物事に対して人間の判断基準があやふやになるように、未だ多くの日本人の中でうま味の概念が揺らいでいる脆弱な浮動状態と言えるのもしれない。うま味の加減で飲食物が美味しくなったり、逆に不味くなったりもするというごく当たり前の着想をその揺らぎのために獲得できないでいるとしたら無条件の「うま味礼賛」の実状にもある程度合点がいく。
一方、海外に目を向ければ1997年の嗅覚・味覚国際シンポジウム(ISOT@米国サンディエゴ)で正式にうま味の存在が認められ、晴れて5番目の味覚として国際的に「Umami(又はUmami taste)」と表記されるようになった快挙は記憶に新しい。海外には元々「うま味」に相当する語の無い国が多く、各国の食文化に根付いている経験則的なうま味の利用体系を除けば、基本的には新しい概念として取り入れられていくのが順当な流れであろう。うま味の概念そのものの定着には年月を要する代わりに独立した新たな味覚として向き合える海外に対し、うま味が下支えする食文化的な素地はありつつも、うま味の共通認識には不確定要素を抱える日本。果たしてどちらの食文化に伸び代があると言えるだろうか。ここに来て敢えてうま味の名称を変更することは一つの打開策と言えなくもない。しかし、異形な味わいのうま味がこうも普遍化してしまった現況を破壊的に変化させ得るかは正直なところ疑問である。むしろ、この枷を負った状態だからこそ、うま味との発展的な関係を新たに模索していくことが誉高いうま味発見者を擁する国として進むべき道と言えるのではないだろうか。